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リレー日記

8月6日

投稿日時:2023/08/06(日) 21:28

お久しぶりです。
最近、3年半勤めていた学習塾を退職した金目です。
大学4年生のくせに、塾講師しかやったことがないので社会経験不足が否めません。

さて本日は、8月6日。太平洋戦争末期、広島に原子力爆弾が投下されてから78年が経ったそうです。
そこで、少し真面目な話をしようと思います。面白い話を期待してた田村さん、ごめんね。

皆さんは、旧日本軍がした戦争犯罪行為について現代を生きる我々が責任を負うべきだと思いますか。
原子力爆弾を投下したことについて、現アメリカ大統領のバイデン氏は謝罪するべきであると思いますか。

これは非常に難しい問題だと思います。

例えば、今を生きている我々は戦争当時を生きていた訳ではないのだから祖先の行為について責任を負うのは妥当ではないという主張が考えられます。確かに、現行刑法では個人責任の原則が徹底されており、例えば、親が犯した犯罪についてその子が責任を相続するということはあり得ません(民事上の責任は別として)。また、我々は好き好んで日本に生まれた訳ではないのだから、このような偶然の事情から責任を負うということは納得できないということも考えられます。そうだとすると、この主張は確かに説得的だということができるかもしれません。

一方で、日本人として生まれた以上は日本人としてその責任を果たすべきであるという主張も考えられます。個人としてはでなく、日本人というコミュニティに所属しているという特性に鑑みて、その責任を観念するという考え方です。確かに、世代というのはデジタル的に遷移するものではなく、アナログ的に徐々に移り変わっていくものである以上どこから責任を負わなくて良くなるのかというのを明確に定めることができない以上、自分は生まれてないから関係ないとすると被害者への救済が果たされなくなるという危険があるでしょう。このような危険がある以上、国家は継続して責任を持つべきだという考え方もできます。事実、ドイツは第一次世界大戦の賠償金を2010年に完済しましたが、このとき実際に第一次世界大戦に従事していたドイツ人はほとんど生き残っていなかったでしょう。

このような話題は非常に繊細であり、意見の相違によってたびたび国際問題に発展してしまうような内容でもあります。

しかし、どのような立場を取るにしろ、将来的な平和を希求するという点では共通していると思います。
特に現在ではロシア-ウクライナ戦争をはじめ多くの紛争について、鮮明な映像とともにリアルタイムでその状況を知ることができるようになり、平和について考える機会が増えてきています。

先述の通り、私は3年半塾講師をしていましたが、第二次世界大戦の説明をするとき毎回している話がありました。
世界で初めて原子力爆弾を使用された都市は広島でありその事実は変わりようがない。しかし、世界で最後に原子力爆弾が使用された都市を長崎であるとするためには平和に対する弛まぬ努力が必要である。
8月9日、8月15日と、戦争について考える機会があると思いますが、このことをぜひ頭の片隅に入れていただければと思います。

と、ここまで真面目な話をしましたが、このままだと渡すバトンが純金製のごとく重いものになってしまうので、最近気になっていることを最後に話そうと思います。

最近、季節柄ゲリラ豪雨に打たれることが増えてきました。
雷が伴っていることもしばしばあります。

そこでふと気づきました。
「避雷針」って名前変じゃね?

避雷針を設置する目的は、雷を避雷針に集め、他の場所に雷が落ちることを防ぐためです。
雷を集めるため、、、
だとしたら「集雷針」にするべきだろ!

人間が雷を避けたいがため、その思いが先行しすぎた結果、このような人間本位の名前をつけられてしまった「避雷針」の気持ちを考えると、涙を禁じ得ません。

高山くんはどう思いますか。

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